さびしさ。人間はどの動物よりもさびしさに敏感な動物です。さびしさに突き落とすだけで、人は殺せます。 自己の孤独にどっぷりつかり、浮かび上がった人間にしか、真の人間的やさしさは生まれません。 母親の胎内にいる胎児の姿を思って下さい。 自分の腕で自分の折り曲げた両膝を抱え込んで、 膝にうつむいた顔を押し付けています。 何という孤独なさびしそうな姿でしょう。 人は胎児のときから孤独だったのだと、あの姿を見ると思い知らされます。 だから人間は、ほんとうに孤独でさびしいとき思わず 胎児と同じ格好をして 悲しむのです。 人は孤独だから互いに手をつなぎ、肌と肌であたためあおうとします。 心と心で語り合いたいと思い、相手をほしがるのです。 自分の孤独をわかってくれる相手がほしい。そしてその孤独を分かちあってほしいのです。 「犀の角のようにただ独り歩め」。 何か自分が行づまったときや、たとえようもなくさびしいときに、ふとわたしの口をついて、お釈迦さまの言葉が出てきます。すると不思議に心はなだめられ、不如意も、怒りも怨みも消えてしまうのです。わたしはひそかにこれを自分の呪文としてきました。哀しみや怨みやさびしさに捕らわれている自分が、荒野をさまようただ独りの一角獣に見えてくるのです。しょせん人間は孤独な動物だったんだという諦念が、あらためて胸によみがえってきます。 一見、平凡で、よそ目には何の苦労もなさそうに見受けられる人の内部に、どんな激しい人知れぬ嵐が吹き荒れているのか、それは掴みきれるものではありません。 自分の記憶ぐらい自分本位に都合よくまげて覚えこんでいるものはなく、 自分の行動と心理くらい、麻のように乱れこんがらがっているものはなく、 自分の心の奥くらい、硬い殻でしっかりかくし秘めているものはないのです。 自分が孤独だと感じたことのない人は、人を愛せない。 「生きながら死して静かに来迎をまつべしといふ、万事いろはず、一切を捨離(しゃり)して、孤独独一なるを死するとはいふなり」 という一遍の法語を、常に思い浮かべていますた。孤独独一というさ烈しい決然したことばは、けだし一遍の造語でしょう。背をまるめつんのめるようにして歩いていく一遍のうしろにどうぼうしゅうの姿が幾人連らなっていようと、前方をきっと見据えた一遍の瞳の中の孤独の色は、日ごと、年ごとに濃くなっていたのではないでしょうか。 釈尊をはじめ宗祖や開祖と呼ばれる人々は、この厳しい凍りつくような孤独を抱いている人たちばかりです。そして、何といっても、恩愛を断ち切れる強さを持った人たちなのです。 人間は本来孤独なものです。 そうとわかってはいても、やっぱり他人の愛を求めたがる。 孤独だからこそ、愛がほしい、語りあう人がほしい。 肌であたためあう相手がほしいのでしょう。 人間は孤独でさびしいのが当たり前なのです。自分がさびしいから人のさびしさもわかる。自分はこんなにさびしいのだから、あの人のきっと人恋しいだろうと思いやったときに、追い手に対して同情と共感が生まれ、理解が成り立ち、愛が生まれるのです。 人は一度この世に送り出されたが最後、いやでも前へしか進めない運命を担わされます。一度通った宿へ引き返す道はふさがれていきます。 道づれのほしさに目がくらみ、道づれに頼りすぎると、裏切られることが多いのです。 どうせこの世はひとり旅という覚悟さえつければ、思いがけない人の情や風景が、改めてしみじみ心にしみてくるものです。 人間は、人も自分をも裏切ってしまうものです。 だからこそ儚い愛の中につかの間、いっそういじらしく、 自分を解き放とうとするのです。 世の中はおおきな編み物と思ってください。 編み物は一目一目編んでいきます。 編み物の目が、右の目と左の目と、上の目と下の目と、 ずっとつながっているから次から次へとつながって、 あたたかいマフラーやすてきなテーブル掛けになるのです。 あなたはその編み物の一目なのです。 虫に食われたりしたら大変です。 上下左右たくさんの編み目に迷惑をかけてしまう。 小さくても自分がしっかりした一目でいること。 小さくてもあなたの存在は大切なものです。 しっかりしなさい。 わたしはこの半生で、したいことをまことにしたいように生きてきました。 世間の道徳も人の思惑も、ときには人の不幸さえもかえりみず、勝手気ままに自分本位に歩くことを貫いてしまいました。その天においてわたしはおよそ、この世に思い残すことはないのです。わたしは生に対して執着は薄く、生命だけでなく、ほとんどの物品に対しても強い執着は持ちません。 人との愛でも別れなければならないと決心すると、自分のからだから鱗でもこき落すように、愛もみれんもひきはがしてしまいました。 そんなわたしが小説を書きつづけるのは自分のしてきたことに対する懺悔なのです。 独りで生れ独りで死んでいく人間は、 自分を頼れるものに鍛えあげるしかないのです。 自分の属している世界から、ある日突然姿を消し去り、全く別の世界で生き直したいと、一生に一度も思わない人間がいるでしょうか。 心が冷たいからとはかぎりません。心があたたかすぎる、しがらみに耐えきれなくなった人間もいるはずです。 心の傷を受けて虚無的になってしまう人間もいれば、生まれたときから、母親の胎内に熱いものを置き忘れて、はじめから心に穴のあいてしまった人間だっているでしょう。 心臓に穴のあいた赤ん坊は医者がす速く発見しますが、穴のあいた心をもって生れた赤ん坊は、医者にも誰にも発見してもらえません。 同床異夢ということばがあります。 どんなに愛しあっていても、一つのベットで抱き合って寝ても、 ふたりで一つの夢を見ることはできないということです。 互いに別々の夢を見て、相手の夢のなかにまでは入っていけません。 それくらい人は孤独な存在なのです。 生ぜしもひとりなり。 死するもひとりなり。 されば人と共に住するも独りなり。 そいはつべき人なき故なり。 一遍上人のことばは、人間の孤独の上に新鮮に輝いてきます。 |